■■大学院生 |
機械工学専攻 M1 大島 康司 |
今回の実習は、前回と違いアシスタントとして参加した。 以上のことについて、1では実習に取り組む姿勢をみて感じた。例えば、絵を描いてガリマーレの全体を把握している人などもみてそう感じた。 その反面、反省点として次のことを感じた。 全体的な評価としては、第1回、第2回で良い面、悪い面などが様々な面が見れたため、参考になる点が多かった。 これらの経験を活かして、次回の実習にまたつなげたいと思う。
機械工学科出身の学生からみて、やはり環境。特に産業機械による地球温暖化への影響は気になる。 今後、あまり対策をとらず、先進国の二の舞になるような事はやはり避けたい。しかし、その為にどのようにしていったらいいのかは、先進国と発展途上国が協力し、世界的に対処していくことが必要である。
その為、でもあるので、機械工学科の学生として、この事について少し調べていきたいと思う。 |
建築学専攻 M1 金田 綾佳 |
様々な人間(生まれ、今おかれている状況、背負っているもの…)をみて、いろいろ感じ、考えた。自分自身、地に足のついた人間になりたいと思った。 記録の大切さについて、多少実感できたように思う。 |
環境情報学研究科 M1 岩松 俊哉 |
気づけばフィジー訪問4回目、総滞在日数37日(2004年9月13日現在)を迎えてしまった。2003年3月から半年に一度の割合でフィジーに渡航し、今や郷里に帰るような気持ちになる。最近では、周りの人も「今度はフィジーにいつ『帰る』の?」と、僕がフィジーに行くのを、あたかも実家に帰省するかのように冗談を言ってくる。いつの間にか自分には日本から遠く離れた南の島国に第二の故郷ができてしまったようだ。 ガリマーレに続く道に四駆が入っていき舗装道路が途切れた途端、なぜか気持ちが高ぶってくる。キャッサバ、タロイモ、パパイヤの畑が道の両脇に広がり、集落も見える…石灰岩の崖が見えたら『郷』はもうすぐそばだ。白い砂浜、青い海は無いけれど、そこにはいつも温かく迎えてくれる人たちが居る。村に着いたときの歓迎は、いつも期待を裏切らない。超えたからかに響く挨拶「bula!」、満面の笑み、ごつい手での固い握手、奇声を上げて駆け寄ってくる子供たち…何度足を運んでも変わらない。変わらない事で、ふと胸を撫でおろす。 もちろん変わっていることもある。今回は、村でたくさんの子犬が生まれ、シガトカ川では竹の筏「ビリンビリン」が使われなくなり、シンガトカの市では雨よけの屋根が増えていた。僕が初めてフィジーを訪れた時のナンディ国際空港は改修工事の途中で、今のような高級感あふれる空港ではなかった。些細なことではあるが、訪れるたびに何かが変わっていることに気づく。 自然の姿も雄大なときの流れと共に大きく変わる事を、フィジーの海と山の両方で見ることで気づく。ガリマーレの石灰岩は、1500万年には海の生物礁である…と言われても、現世の生きているさんご礁を見ると本当かと、つい疑いたくなってしまう。一方、現世の生きているさんご礁が、いずれガリマーレの石灰岩のように姿を変えるということも信じ難い。ところが、ガリマーレでボーリングのコアサンプルに巻貝や有孔虫の化石があるのを見ると、こんな山奥に、かつて海だったころの様子が刻み込まれていることに驚かされる。 人の寿命をスケールに考えると、1500万年という時間は非常に長く、その間の変化は大きいと感じるのだろう。半年に一度訪れるたびに気づく小さな変化と、1500万年掛けて変わった姿はまったく違うものだが、時と共に変わっていくものとして共に見ていくと、とても面白い。 時と共に換わり行く事を嘆いているわけではないが、いつまでもフィジーで川ってほしくないものがある。それは、村に残されている人々の明るさや温かさ、そして、のんびりとした風情だ。たしかに、これは他所から来た者の誠に勝手な思いだろう。しかし、たとえフィジーが先進諸国のような経済発展を遂げ、街の様相が先進国と変わらなくなり、村にも貨幣経済が浸透したとしても、底抜けに明るくて、いつものんびり心豊かな生活を送っている人々の姿は、貨幣価値では計り知れない財産として残っていて欲しいと願う。 都市生活は貨幣経済によって成り立ち、社会基盤が整備され、高質なものだと思われている。ところが、高度な技術あるいは貨幣を取り除いたら、一帯何が残るだろうか。貨幣や社会基盤がなくなったとしたら、食べるもの、着るもの、住まうところは所与の自然を利用し、自給自足しなければならない。力の要る作業もある。その時、フィジーの村人たちの生き方に学ぶところが大きい気がする。自らの生活を自ら支え、大掛かりなことをするときは互いに協力する事を厭わない…誰彼無く挨拶し、とにかく明るくのんびり生きていく…そんな村人たちの姿は、本来、人のあるべき姿なのかもしれない。『郷』に変えるたびに、そう思うのである。 |
東京工業大学総合理工 M1 津田 佳奈子 |
今回のフィジー実習に同行して感じたことを幾つかの項目に分けて報告させて頂きます。 ・環境について フィジーの人々の生活(タワタワンジ村で見た生活から述べていますが)は日本人の生活と比較すると、極めてエネルギー消費量が少ないということを改めて実感しました。以前、自分の生活での一年間あたりのエネルギー消費量の見積もりを行ったことがありますが、自宅及び学校で使用する電気、ガス、水道と、それに加えて排出するゴミの処分に必要なエネルギーという四点からだけの計算でしたが、それでも年間17GJのエネルギー消費になることがわかりました。おそらくフィジーの人々のエネルギー消費量は、この半分以下になるのではないかと思います。エネルギー関連の勉強をしている学生が参加することがあれば、自分の生活でのエネルギー消費量の見積もり、及び村の人々の生活でのエネルギー消費量の見積もりをし、考察を行うというのも、おもしろいのではないかと思います。エネルギー資源が限られていることから考えれば、私達の生活でも少しずつ省エネ型の生活を取り入れていかなければならないのだと思います。また、私達の生活が成り立っているのも、村の人々のような生活を送る人々がいるからだと考えなければならないのだと思います。もし世界中の人々が日本と同じ生活レベルで生活しようとすれば、あっという間に資源は底をついてしまうことと思います。 また、フィジーでは日本の自動車をよく見かけましたが、おそらく中古の自動車で、現在日本で利用されている自動車に比べて環境負荷が大きいのではないかと思いました。貴重なフィジーの大自然を破壊しないためにも、解決しなければならない問題なのだと思います。では、どうすれば解決できるのかということを考えたときに三つ考えられることがあるのではないかと思いました。 ・環境負荷の低い製品を持ち込む(表現が適切でないかもしれません。) このなかでどれが望ましいのかということを考えたときに、フィジー国内での技術力が向上していくことはフィジーに取ってみれば良いことですが、おそらく先進国からすれば望ましいとは言えなくなってくるのではないかと思います。世界中の国々の技術力が向上し、生活レベルが上がれば、エネルギーの問題が更に深刻化するからです。このように環境問題というのは、どの立場から考えるかということで捉え方が異なっており、矛盾が生じるものなのだと思いました。双方にとってwin-winになるような解決策を考えていかなければならないのだと思いました。おそらく、双方が譲歩するしかないのでしょう。 研究室の先生と、帰国後フィジーの話をしていたときに頂いた意見ですが、中古の機械類を海外に運び利用するということはしないほうが良い、結局長い目で見ればゴミを運び出しているのと同じことで、物は無ければ無いで生活していくことは出来るのだから、このようなことをやらないということの方が貢献していることになるのでは、ということでした。ゴミを運び込むくらいなら、何もしないほうが良いということですね。中古の製品に関してゴミと結びつけて考えるということが私の中では新しい発想でした。なので、ご参考までに触れてみました。 ・実習のプログラムについて産業として成り立つ前の段階を見ることができたということが、とてもよかったと思います。開発前の段階を見るということは日本では出来ないことなので、貴重な機会を頂くことが出来たと思います。また、しっかり映像として記録するということが出来ていたと思いますので、変化していく様子を辿ることも出来るのでしょう。記録してクコとの重要性についても中先生によるメディアの講義が非常に役に立ったのではないかと思います。記録するということに関しては、かなり充実していて感心しました。 また現地での実習も勝木先生、佐藤先生、萩谷先生ともに説明が理論的でわかりやすかったです。学生にとっても、石のことや植物のこと、測量がわかったということだけでなく、考え方を学ぶ良い機会となったのではないかと思います。また、先生方の専門分野に関する知識の深さ、専門分野以外の知識の幅広さは、とても勉強になりました。 ・フィジーの人々について一つは村の人々のあり方が印象的でした。物を、みんなで分配するというのは特に印象的でした。今のような生活だから成立しうることなのか、それとも国民性からくるもので、生活スタイルが多少変化しても保てるものなのか、ということが気になりました。もう一つ村で印象的だったのは、男性と女性の関係です。セブセブでは男性がメインで進めていましたが、日常生活において男性が上、女性が下というような印象は受けませんでした。男性は男性、女性は女性で、それぞれの役割があるような印象を受け、ほぼ台頭なのだろうと思いました。内情はわかりませんが、みんなが、のびのびと生活している様子は感じることが出来ました。 参加者の学生と面識が無い状態で参加させていただいたのにも関わらず、非常に温かく迎えてくださったことに感謝しております。まとめの会でも申し上げましたが、みんな感受性が強く、とても素直だという印象を受けました。ただし、みんなと一緒にいて思ったことは、もう少しつめて考えようとすれば、更に成長できる可能性が広がるのではないかと思いました。同年代の学生として生意気なコメントになってしまって申し訳ないですが、私が最近心掛けていることの一つでもあるので感じたことなのだと思います。(なので、私も実現しきれておらず、心掛けという言い方になってしまいますが。)
全体を通じて数々の貴重な経験をさせていただくことが出来、本当に良かったと思いました。最後になりましたが、このような素晴らしい実習に同行させて頂く事を、快く諒承してくださった萩谷先生に心より感謝申し上げます。また、他大学の学生であるにも関わらず、他の学生と変わらぬご指導してくださいました勝木先生、佐藤先生にも感謝いたしております。実習参加に際しまして、諸手続きを行ってくださいました寺坂様、また学生の皆様にも、こころより感謝致しております。 |